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高見和義 平成14年度日本照明家協会賞
大賞受賞!! 5/16up

2003年5月14日協会賞授賞式の模様をお知らせします!(5/16up)

高見・賞状授与
吉井澄雄会長より賞状授与。
高見・スタッフ賞
あわせてスタッフ賞、
田中専務が代行で授与 。

高見・スピーチ
スピーチ、かなり大勢の方が
いらっしゃったので緊張します。

高見・中締め
受賞者と丸岡副会長による中締め。

高見・大賞受賞された松本氏と
テレビ部門で大賞受賞された
松本修一氏と。

高見・遊機械オフィスよりお花と
遊機械オフィスよりお花いただきました。
演出の白井晃氏も御出席、
スピーチいただきました。

速報です!!

当社のの高見和義が、第22回日本照明家協会賞大賞を受賞しました!

詳しいことは日本照明家協会ホームページに記載されていますのでそちらを見ていただくとして…

CAT府中センターでは毎日18時から定時ミーティングがあるのですが、その嬉しい知らせが舞い込んだ日は

その場で居並ぶスタッフの大きな拍手が沸いたのでした。

当のご本人は照れ隠しなのか、ちょっと困ったように笑っていたのが印象的でした。

肝心の受賞作品は平成14年5月24日〜6月23日の世田谷パブリックシアター・シアタートラムで上演された

「ピッチフォーク・ディズニー」(遊機械オフィス主催・世田谷パブリックシアター提携公演)という作品の照明デザインに対してです。

これにもまして今後、もっともっと素敵なあかりを作っていくことでしょう。

同じスタッフでありながら、それがすごく楽しみです。

とりあえず「速報」でした。

公演概要

世田谷パブリックシアター提携公演 ピッチフォーク・ディズニー

作:フィリップ・リドリー 翻訳:小宮山智津子

演出:白井 晃  照明:高見和義

出演:萩原聖人 山本耕史 吉田メタル・宝生 舞

公演日程:2002年5月24日(金)〜6月23日(日)

1991年ロンドンのブッシュシアターで初上演され、主役の俳優に対してチャリングトン・フリンジ賞が贈られる。

翌年、この作品はヨーロッパ各地でも上演され、特にドイツ劇場での公演は2年間のロングランを記録。アメリカでの上演も数々の賞を受賞した。

日本では、1999年に世田谷パブリックシアター主催、シアタートラムでのドラマリーディングで取り上げられる。2002年初の日本上演となる。

“ピッチフォーク”というのは、兄の悪夢に出てくる子供殺しの怪人の名前。

ピッチフォークは、井草を指す大きなフォーク型の農耕具のこと。

タイトルが暗示するように、子供の純真さと残酷さが表裏一体となって出現する、異色作です。

STORY

ロンドンの下町にプレスリー・ストレイ(萩原聖人)とヘイリー・ストレイ(宝生舞)の28歳の双子が ひっそりと住んでいた。着たきりのTシャツにGパン、歯も磨かない、髪もぼさぼさ、いつお風呂に入ったかもわからない。
二人は外界と接することを避け10年前までのパパとママの思い出に浸りまどろむように生活をしていた。特にヘイリーは外へ出ることを嫌い、外界で出くわした恐ろしさを語り二度と出たくないと兄にすがる。

ヘイリーのお気に入りはオレンジチョコと兄の語る「世界でたった二人取り残された兄妹の物語」、そしてパパとママが愛用していた薬の香り。1日の半分以上を眠りの中で暮らしている。
そんな自分勝手な妹を憎らしいと思う反面愛おしくてたまらないプレスリー。結局いつも妹の言うなりになってしまう。

いつものように過ごしているある日、二人の耳に窓の外からかすかな叫び声が聞こえる。
窓の外には具合を悪くした二人組が見える。おびえ、パニックになるヘイリーを、プレスリーは落ち着かせて薬で眠らせる。
窓の外の人間に興味津々のプレスリーは、体調を壊したらしい少年を部屋に招き入れる。
初めてみる天使のように美しい少年、コスモ(山本耕史)。コスモは自分の完璧な美しさをよくわかっている少年。自分の美しさに惹かれる男たちを最も嫌っている。なんでも食することを見せ物にして生計を立てている。
プレスリーは自分よりも若い美しい少年のことを知りたくて幼子のように質問をし、自分のことを知ってほしくて彼に語りかける。
コスモは自分よりも年上の汚らしいプレスリーに嫌悪を示し上の空で応対するが、傍らに眠るヘイリーの姿に興味を示し、初めてプレスリーの存在を意識する。
二人の会話、なごむ一時。束の間友情が芽生える。
しかし、「友だち」と信じた少年の裏切りを知り、兄は・・・・・。

どこかで見た悪夢のような一時。目の前にある恐怖は覚めるのだろうか。

ピッチフォークディズニーチラシ

イギリス・ロンドン公演での「ペリクリ−ズ」劇評公開 5/2up

イブニング・スタンダード 3月31日(月)

−日本様式に富んだ素晴らしいロマンス−

 

ボロボロの服を着、傷つき、怪我をしている難民が機関銃の音の中、流れるように通路を通る。原田保による素晴らしいグレーのサーチライトの一筋の光がさす、かすんだ舞台に彼らがたどり着くと、舞台上の水飲み場に乾いたのどを近づけ、疲れきった喜び中、私たちをじっとみる。 戦争と苦難の逃避と救済を描く心に残るこの場面は、蜷川幸雄による並外れた美しいシェイクスピア晩年の作品の幕開けと終わりを飾っている。このシーンは蜷川独自の創作であり、ぺリクリーズと直接関係しているものではない。しかし、復活や惨事の直前から奪い取った幸福感は、この壮大なおとぎ話の要点をうまく伝えている。ぺリクリーズ王は、海では嵐に、陸では危険な王と女王に会い、妻と娘の死にも会う。妻と娘が復活するラストの家族の再会までは、彼は幸せに落ち着くことはない。

蜷川は、今までに何度も彼独自の日本の演劇様式、感受性、そして視覚的比喩に対する才能をシェイクスピア作品に用いてきた。「ぺリクリーズ」は、豪華な王の祝宴やトーナメントの場から、嵐で遭難を受けた船、高級娼館まで、彼が得意とする壮大な場面描写を用いる機会を与える作品である。しかし、蜷川ぺリクリーズは、大掛かりなスペクタクル装置を控え、おもちゃの船を使い、布で嵐をあらわしている。ここでは子供的な楽しい寓話のように、暗闇からから明るみへ場面を動かし、儀式的な要素とシンプルさに富んでいる。しかし、音楽に関して言えば、不気味な日本の笛と無味乾燥な弦の音で、良く言えば、魅惑的で、しかししばしば西洋的になりすぎなので、悪くいえば、俗っぽい哀歌に聞こえる。

中越司による堂々としたデザイン−高いグレーの壁、水飲み場、空に舞う切断された首−は閉所的であり、夢のような空間である。話し方は雄弁で熱情的であり、特に、鏡の前で操り人形であらわされるガワーのナレーションで、このことが強調されている。特にトーナメントの場での戦闘服と装飾マントをまとう内野聖陽は、ハンサムで目立つポニーテール姿のぺリクリーズとして、堂々とたくましく輝いている。それで彼は田中裕子演じるタイーサの心を奪い勝ち取る。更に、タイーサが海で死ぬときの内野の悲しみの叫びは非常に感動的であり、また彼女が棺から起き上がる瞬間には仰天する。内野の狂気がないので再会の感動的なシーンが弱くなってしまったが、蜷川ぺリクリーズは人を魅了し、賞賛せずにはいられない。

evening standard

タイムズ 2003年3月31日

「ぺリクリーズ」の核心に近づいて
ベネディクト・ナイチンゲール
演劇:「ぺリクリーズ」
オリヴィエ劇場  ★★★★☆

 

ぺリクリーズ」の上演にはいつも合格しなければならない大きな試験が1つある。第5幕の終わりに主人公は、娘の死に打ちのめされ、やせ衰えた姿に変っているが、次第に彼を慰めようとしている娘が自分の死んだ子供だと気付く。シェイクスピアは芝居を全部書かなかったが、彼の技と心はこのシーンに生きている。そしてこのシーンに喜び、美しさ、不思議さが混じりあったものを出せない演出家は不合格となる。

去年の夏、エイドリアン・ノーブルのRSC版「ぺリクリーズ」はこの試験に合格した。9年前にオリヴィエで上演されたフィリーダ・ロイズの公演は落第だった。彼女の贅沢な舞台装置の騒々しさが、私たちを本質から遠ざけてしまったのがその主な理由だ。そして偉大な演出家、蜷川幸雄の英語字幕つき日本語「ぺリクリーズ」は同じ劇場で合格するだろうか?いささか驚いたことに、彼は合格点を超えている。

驚きの理由の一つは彼の効果もかなり贅沢であるということと、もうひとつは、奇妙な政治的枠組みを与えることによってこの作品の感情の中心を軽んじるという危険を冒していることだ。この公演の始めと終わりは、薄汚れ不具になった難民たちが、銃声とともに脚を引きずって舞台に登場する。そこで彼らは蛇口からばらばらに置かれたごみ箱に落ちる水で、元気を回復する。そこでまた、彼らはシェイクスピアの描く語り手ガワー(ここではアジア風のリュートを弾く冷笑的な男と勝ち誇ったようなガーガー声の女の2人が演じる)の導きに従い、「ぺリクリーズ」の物語を演じる。私はこれらのごみ箱を十分に説明はできないが、蜷川の目的は、苦しみ、別れ、融合と癒しについての芝居から引き出された慰めを示すことではないかと思う。

一方で、我々の世界でそのような慰めは、はかないものであると強調する。しかし、驚くのは、それら難民の姿をした俳優たちが、主人公を東地中海を横断させてしまうような、波を示す大きくうねるシーツなどの、ラフな小道具を使うだけではないということだ。憎しみによってぺリクリーズのボートと彼の悪漢冒険物語を推進させる、近親相姦の罪を犯したアンタイオカスはミカドよりミカドらしい着物を着ている。他の者たちも着物が非常に調和している。

the times
蜷川は衣装と照明の一筋一筋に精密を極め、ガワーたちがよどみなくしゃべっているとき、仮面をつけた人形を演じる俳優たちはぞんざいにする;しかしどういうわけかこれは混乱を起こさない。内野聖陽の威厳のあるしかし繊細なぺリクリーズは感情的に重要である。か弱そうではあるが決然としたマリーナと、彼女を生んだ後死んでしまい、魔術によって生き返る母親をも演じる田中裕子にも同じことが言える。内野が彼女をぐっと抱きしめ、抱き上げるとき、リア王のコーディーリアとの最後のシーンの楽天的なバリエーションのように感じられる。 −まあ、あなたは間違いなく蜷川は勝ち誇って試験を合格したということに賛成するだろう。

 訳:清澤 亜佐子氏

フィナンシャル・タイムズ

カルチャー&スポーツ/アート、音楽、演劇
演劇:叙事詩的物語に叙事詩的伝統
アレステア・マコーレイ筆
発行:2003年3月31日、最終アップデート:2003年3月31日

 

蜷川幸雄のシェイクスピア劇「ぺリクリーズ」はセンセーショナルだ。その叙事詩的な物語を語るのに、一つ二つの日本らしさをしばしば取り入れ、次から次へとスリリングな効果の中を進んでいく。空中にぶら下がる切断された頭部、舞台上にばらまかれた水道蛇口から流れ出る水、ぺリクリーズは絵に書かれた波が遠近法のように並ぶ中を必死に泳ぎ、タイーサはさなぎのように着物をまとっているが、蓮の花が太陽に向かって咲きほころぶようにぺリクリーズに向かって着物を開く。死んだタイーサは、棺の上に1ヤード浮き上がり、棺の中に立ち上がり、生き返る。

蜷川の資源は尽きることがないように見える。一瞥で数百を見ているように感じる。強烈で絵のように美しいシーンの連続はスペクタクルと信実のドラマの理想的な結合だ。しかし何にもましてこれは俳優たちがリードする芝居であり、蜷川カンパニーは俳優の技の様々な側面を見せてくれる最高の実証である。オリヴィエ劇場がこんなにエキサイトしたことは無いように見えた。マイクを使わない生の声を客席に大きく響かせ、通路を通って登場するのは際立って演劇的であり、大きな儀式も苦もなく行われる。そしてクライマックスの、ぺリクリーズと長い間行方不明だった娘のマリーナがお互いを認識し合うシーンは、とても単純で抑制され、ほんの小さな声のニュアンスの変化やボディーランゲージの少しの違いも、強烈に人をひきつけるものとなる。この芝居全体の最も突き刺すようなイメージは、このシーンの終わりに現れる。マリーナは父をベッドに寝かせ、彼が唯一必要な眠りにつかせる。

私は初め、この公演に抵抗を感じていた。蜷川カンパニーは日本語で上演しているので、もし中央の通路席に座ったら、英語字幕を見るために何度も顔を演技からそむけなくてはならない。しかしなんとこの公演はさらっと通してしまうのだろう!衣装(小峰リリーのデザイン)だけでも生地や色やディテールが輝くばかりに美しい。歌舞伎っぽくこの芝居のガワーを演じる2人の俳優は、出来事を素晴らしい色で縁取り、文楽の人形によって黙劇のシーンを演じる方法は抜け目がなく詩的だ。唯一わずかに残念だったのは笠松泰洋の音楽のなかには、ボーン・ウィリアムズ・ゴーズ・トゥー・ハリウッドみたいなのもあったことだが、効果的であったことも確かだ。内野聖陽においては、蜷川はルックスのよさと才能をあわせ持ったスター俳優を使っている。これはめったに見られない種類のヒーロー的な演技で、感動的で心奪われる。

この作品でこれよりもよい公演を観られるだろうか?シェイクスピアは、正直なところ、英語で演じられるよりも翻訳されたほうが簡単なこともしばしばである。この作品の5幕の内3幕はシェイクスピアが書いたものではないことを、英語では容易に気付くが日本語では気付かない。特異な演出家、蜷川は「ぺリクリーズ」が彼の才能にぴったりの理想的な作品であることに気付いている。蜷川作品を長いこと支持してきたセルマ・ホルトは、この舞台をロンドンに持ってきた。彼女のおかげで、ナショナル・シアターは最高峰の世界演劇に扉を開いているような気がする。

 訳:清澤 亜佐子氏

financial times

英・ガーディアン紙 2003年3月31日

★★★★★ ナショナルシアター、ロンドン
Death and rebirth Japanese style
Michael Billington

 

蜷川幸雄は「ぺリクリーズ」の演出家として、非の打ち所がない。1985年にエジンバラ・フェスティバルでサムライスタイルの「マクベス」を上演し、観客の度肝を抜いて以来、イメージ、動き、音楽を駆使して夢の世界を創造する演出家としての彼の手腕は、イギリスでも認められてきた。そしてこの舞台でもまた、蜷川はまたもやセンセーショナルな効果を発揮している。

「ぺリクリーズ」の舞台が日本語で上演され、英語のサブタイトルが付くというコンセプトに違和感を抱かれるかもしれないが、蜷川はすばやく観客を独自の世界に引き込んでくれる。観客はこの舞台から戦争に翻弄される犠牲者の人間としての弱さを見せつけられ、死と復活をテーマにした古えの物語を観る。しかしそのような苦しみに満ちた舞台を鑑賞することは、けっして報われないものではない。たとえ、轟くばかり空襲の爆撃音を耳にし、照明の原田保によるスポットライトで浮かび上がる、弾丸で蜂巣のように穴が開いたホラ穴のような舞台セットを観るにつけ、危機に直面した人間にとって、復活の神話が必要なことを観客に確信させるという希望の光がある。

蜷川は、あらゆる工夫を駆使して物語に命を吹き込んでいる。シェイクスピアが編み出した中世の語り部ガワーは、蜷川の舞台では日本の琵琶法師2人に翻案され、ギリシャ劇のコロス風の雰囲気をかもし出すとともに、その姿はまるで音楽を奏でるガラガラヘビのような異形を呈している。琵琶法師達がぺリクリーズのたどった中世の遍歴を語るにつれ、「黒子」と呼ばれる黒衣の人物が人形を操り、ぺリクリーズの冒険物語を演じてみせる。ひんぱんに現れる海原の場面は、大波のようにうねるシルクの布で表現され、怒濤に翻弄される船が絹でできた波がしらに見え隠れする。

この舞台のもっとも素晴らしい点は、蜷川の魔術ともいえる演出によって、人間の生きることの価値を力強く表現することに成功していることである。ぺリクリーズの亡き妻タイーサが、新約聖書のエペソ書に登場するセリモンによって死の棺から蘇るシーンでは、復活を切望するタイーサがまるで空中を漂うかに見える。また、レスボス島のミティレネの売春窟に囚われの身となったぺリクリーズの娘マリーナは、「神々はわが身をみじめな小鳥に変身させてしまった」と嘆きながらも、神々によって救済される希望を捨てず、空翔ける夢に身をゆだねながら、指をパタパタさせて鳥の羽ばたく様をする。すぐれた俳優である田中裕子が母娘を、1人2役で演じている。この1人2役によって物語の象徴主義がより強められてはいるものの、一方では家族再会というクライマックスの画面で、少々混乱させられる向きもみられる。

このような唯一の難点を除けば、この舞台は、シェイクスピアのテキストを躍動的な舞台に仕上げた息をもつかせぬ素晴らしいプロダクションである。船上で父と娘が出会う最後の場面は、心に迫るものがある。田中のシンプルな演技、そして内野聖陽が見事に演じるぺリクリーズは深い感情の襞を表現し、彼自身までもが死から再生するかのように思わせるものがある。しかしこれとて、この至上の作品に延々と流れるメタファーであり、恐ろしい運命の犠牲者たちが演じるのは、人類の存続とはなにかを問う寓話なのである。

guardian

The Daily Telegraph 2003年4月1日に保存

黙示録、折々
ドミニク・カヴェンディッシュがナショナルシアターの「ぺリクリーズ」を批評する

 

今、逃れようとも逃れられないではないか。ナショナルシアターで短期公演中である蜷川幸雄演出によるめくるめくビジュアルの世界「ぺリクリーズ」の舞台は、始まりと終わりが戦禍に焼け焦げた荒廃に埋め尽くされている。耳をつんざく砲弾の炸裂と銃撃の中を、雲霞のような難民が松葉杖でびっこをひきひき、あるいはスーツケースを引きずりながら歩みを進め、白煙がたなびく暗いステージに群れ集まる。疲れ果てて呆然と立ち尽くす者もいれば、ちょろちょろと漏れる水を求めて配水管のまわりに群がる者もいる。配水管は、照明の原田保によるレーザー光線のように正確な照準のスポットライトを浴びてキラキラと輝き、起死回生への一筋の希望を垣間見せる。

奇妙な偶然であるが、ナショナルシアターではおどろおどろしい戦場シーンを綴った叙事詩を舞台の中心に据えたシェイクスピア劇が続いて上演され、今回はその2作目となっている。ナショナルシアターの芸術監督トレバー・ナンのリバイバル作品「Love's Labour's Lost」のリバイバル作---第1次世界大戦の西部戦線の惨状から古典的なコメディーロマンの場面にフラッシュバックする作品---を見たことがある人なら、「ペリクリーズ」を見て、強烈な芸術的ディジャブに襲われるであろう。

蜷川が幕開けで採用した策は、とくに不要だったかもしれない。結局のところ、怒り狂ったアンタイオケ王アンタイオカスとの戦争を避けたのは、タイアの王子だったペリクリーズ自身の望みであり、そのためにペリクリーズは東地中海のさまざまな領土を遍歴することになる。しかし演出家は「戦争というものは、誰もがかならず避けられるものではない」という事実を、舞台を通して終始、観客に喚起しようとする。産褥で妻を亡くし、娘を見捨てざるを得ない苦境--主人公の味わった苦悩は神や自然が与えたもうたものでありながらも、そこには人間の持つ性悪が一貫して働いている。

蜷川の果たした功績は、いつ奇跡が起こるのかという観客の期待と興奮を減じることなく、往々にしてアクセスしにくい幻想的なロマンス劇に至るための、わかりやすくモダンな道を切り拓いてくれたことだ。蜷川の演出の中でもとりわけ注目すべきは、大悲劇の終末には普遍的な要素を与えながらも、シェイクスピア劇--舞台化された「ペリクリーズ」では、そのほんの一部がシェイクスピアの創造物という見方もできるが、少なくとも原作はシェイクスピアであることにはまちがいない--を堂々と、髄まで日本のものに昇華している点である。

舞台は最初、同時代的な華やかさで幕開けするが、後に禅の雰囲気を漂わせる抑制された語りの世界に取って変わる。演者たちは時に、ほとんどオペラ的ともいえる不動の姿勢を保ちながら、伝統的な演技の技法を駆使するのに対して、ダンサーたちの軽快な踊りが対照の妙を見せている。禅の静けさが最も如実に表れているのが幕間の無言劇で、マスクを着けた俳優がフードを被った裏方によって操られる人形ぶりを演じた。

daily telegraph
われわれは、個々の役者の演技を鑑賞するよりも、全体の自然で純粋無垢な感じや、なめらかなスピード、空間の巧みな利用などをつい賞賛してしまいがちである。サムライスタイルの長いローブに、繊細な宝石細工など、古えの要素を組み合わせたコスチュームをまとった役者たちが、舞台を大きく動き回る--しかも、すでにこの世の終末が訪れたかのようなボロをまとって。俳優たちは、感情の欠落する無表情さや、反対に過剰な感情移入に陥ることもうまく避けている。このような努力はとくに厳粛なシーンや喜劇的な場面で功を奏している。しかし、内野聖陽の超然としたペリクリーズを含め、控えめではないタイプの登場人物の場合は、感情表現が物足りない。

英語の字幕にちらちら目をやらなければならないが、これはうまくいかない。鑑賞する上で一番よい方法は、とにかく蜷川芸術の世界にどっぷり浸ることだ。舞台の中で最も忘れがたい場面は、言葉のない静寂の訴えかける力が台詞の力を超える時、水が突然またほとばしる一瞬、そして音響の井上正弘による音楽が流れる一瞬だった。

私は、この芝居の間に3度、英語のシェイクスピア劇ではめったに覚えないほどの感動を味わった。それは、ペリクリーズの妻タイーサ(田中裕子)の復活の時、売春窟に囚われたマリーナ(これも田中裕子)があやしく魅惑的なダンスを踊る時、そして襤褸を引きずったペリクリーズが14年ぶりに娘の姿を見た、いや見たと思ったとき、この3度である。まったくのところ、驚くほど秀作だ。

西川園代氏 カナダ・ケベックで賞を受賞!  4 月up

西川園代氏 Prix d'excellence des Arts et de La Culture 受賞!!

西川・賞状2003

CATがサポートしている照明デザイナー西川園代氏が、ケベック(カナダ・ケベック州)の芸術・文化に貢献した人や団体に与えられる賞を受賞致しました!

装置、照明、衣裳など含む舞台デザインを対象にしたPrix Jacques-Pelletier というカテゴリーのノミネート3人(他2人は衣裳、照明)のうち一人ということです。

対象になったのは昨年1月にケベックで上演されたTheatre du Tridentのソフォクレス版「アンティゴネ」の照明デザインに対してです。

園さんおめでとうございます!!!


 

賞のメインページ(西川氏の紹介ページ)

http://www.culture-quebec.qc.ca/prix/laureat03/prix_jacq_pell.html

ケベックの新聞 Le Soleilの記事
下のTheatreという項目の2段目くらいに西川氏の名前があります。

http://www.cyberpresse.ca/arts/article/2,333,0,012003,190972.shtml

ケベック情報

QUEBECとは・・ケべックし州はカナダで最も歴史と伝統のある州で、フランス語を公用語とする唯一の州です。
州の面積は日本の4倍。その4分の3を森林が占めています。
ケべック州の州都ケベックシティはこの北米大陸唯一の城砦都市におかれています。観光都市としても有名です。

ケベックの芸術・・ヨーロッパと北米の文化を背景とするケベック芸術は、独創的で、多様性という点では他に類を見ません。
ケベック人のつきることのない想像力は、文学、音楽、演劇、ダンスおよびサーカスをはじめとし、絵画、彫刻、そして伝統的かつ現代的なクラフト、ネイティブ・インディアンの作品など、すべての芸術に表現されています。
ケベックのあちらこちらで、世界的な芸術祭が毎年開かれています。これらの芸術祭はケベックのア−ティストを世界の舞台につなぐ上で重要な役割を果たします。舞台芸術の面では、アメリカ演劇フェスティバル、モダンダンス国際フェスティバル、またケベック・サマー・フェスティバルなどがあげられます。

キダムもケベックから・・ケベックが誇るエンターテインメント集団シルク・ドゥ・ソレイユ セント・ローレンス川沿いに広がり絵心をそそる風景が続くシャルルヴォワ地方。 その中でも特に多くの芸術家たちに愛されているベ・サン・ポール(Baie-saint-Paul)で街行く人々を魅了する大道芸人たち。そんなパフォーマーたちが集まり1984年に設立されたシルク・ドゥ・ソレイユ。
サーカスの域を超えたパフォーマンスのみならず衣装や音楽・照明まですべてにおいて芸術性に富んだ独創的なエンターテインメントは、公演ごとに話題を呼び、またたく間に世界的に評価されるものとなりました。

ケベックは夫婦別姓・・新家族法のなかで、個人主義と男女平等の精神から夫婦別姓を強制しています。四四二条の「結婚中、夫婦各自は、彼の姓および名を称し」というものであり、改正後に結婚した人たちは、夫婦別姓を強制されてます。子どもの姓は父母のどちらをとってもよいし、両方を並べることもできるのです。